一年前、一人でゴッホの作品を美術館で見てきたことがある。絵については何も分からない。何も知らないし、たいして歴史に興味もないけど、絵を見るのは好きだったから何気なく見に行った。ゴッホの絵はやはり上手だった。技術的な評価を求めるなら他のブログを当たってくれと思う。

ゴッホは1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた。アムステルダムで神学部の受験に滑った後、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画家を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多かったという。     

1886年パリに移り住み、ポールゴーギャンとの共同生活を始めたが、二人の関係は行き詰まり共同生活は破綻。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した。発作の合間にも彼は画作を続けたが、ついには銃で自らを撃ち、死亡した。

そんな人が描いた絵が、私が見に行った展覧会で展示されていた。ひまわりや夜のカフェテラスタンギー爺さんもあった。名前を知らない作品もあった。ぴかぴかに磨かれた壁はガラスみたいに透き通っていて、作品が際立って見えた。

その日はそれだけで帰った。帰りの新幹線の中、タブレットゴッホについて調べていると衝撃の事実を知った。生前、彼の売れた絵は一枚だけだったという。昔は社会に見向きもされずに、価値がないとレッテルを貼られた絵が、今では社会的に認められて美術館で飾られているのだ。ゴッホは売れもしない絵を愚直なまでにたくさん書いただけなのだろうか、パリではプロと認められず程度の低い素人画家だったのだろうか。

 

今の社会に通じるものがあると思う。人は自分の目と耳で聞いたものを信じず、日常的な判断を社会での一般的な判断に委ねている。みんながこれを買っているから私もこれを買おう。みんながこの曲を聴いているから私もこの曲を聴こう。みんなが喋っているから私もあのグループに属さなきゃ。この人生の道には足跡が多いから安泰だろう。噂や伝聞のみを気軽に信じる。数えきれない。確かに社会的に認められているものには社会が保証する限り一定の価値があるだろう。しかし、社会に委ねている状態では自分の判断力は育たない。自分の判断力が社会の一部にとって代わる。私にとって、それは死ぬ事と同じだと思った。では、今までの自分の人生を振り返ってみよう。自分の判断で何かしたことをぱっと思いつけるか。思いついたとしても、それは自分の判断でやったと言い切れるのか。私は自信をもって言い切れることが少なかった。

私はこれから先、生前ゴッホの絵を買ったような人になりたい。